2008/07/21

身体の動かしかたをイメージによって拡張する

http://d.hatena.ne.jp/takukanba/20080718/p1

腰痛/背部痛における整体法 - 横浜の心と脳と身体の整体 神庭拓也の研究室"><
お子さんに身体運用における語彙を身につけてもらおうと願っていらっしゃるのであれば、子供というのはいったい自分の身体をどのように感じているかを想像(イメージ)する必要がある。

幼児が少しずつ言葉を覚えていくように、家庭での身体運用的語彙の活用が必要であろう。

もちろん小児、思春期のセッションでは身体運用的語彙の修得は必須科目のひとつである。

たとえば「腰」ひとつとってみても、「腰を据える」「腰を砕く」「腰が浮く」「腰を落とす」など、日本語の表現は実にすばらしい。

微妙な動きを見事にあらわしている。


身体の動かしかたをイメージによって拡張するというのは、経験のない人にとってはいかにもイメージしにくいらしい。

たとえばあなたが緊張しやすい人だとする。

足の指は大地を必死にとらえ、ハンマートウになっている。

こんなとき、アライメントを整えたりするのに膝や足関節、股関節や骨盤などを補正することがあるが、エクササイズのなかで「膝の角度があーとか、うーとか」は言わない。

だって、膝の角度なんていう言葉が頭のなかにはないからね。

だから、クライエントさんにとってわかりやすいイメージで伝えるように心がけている。

ある人にとっては、昔田植えをしたように・・・とか、またある人にとっては忍者になって水の上を歩くように・・・とか。

そういう一言で一気に足の緊張がふわっと抜けるってのが身体の素晴らしいところなんだなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/07/20

とりあえず笑ってみる

http://jp.youtube.com/watch?v=0eB3ISAYE-I

YouTube - Laughter Yoga CNN Report
Laughter Yoga CNN Report


「ラフターヨガ」なるものがあるとは知りませんでした。

いやいや、笑うってのはただ単に面白いからって笑えるものじゃないわけですよ。

「そうなんだよ!それ!」という合点感がある。

腑に落ちるようなね。

子どもの頃から付き合っている人なんかと話すと、「ああ!それを言いたかったんだよ」ということがありますよね。

まったく同じことを考えているような。

でもこれって同じことを同じときに考えているわけじゃあなくって、話しているあいだに聴いているほうの脳がどんどん更新されていくわけです。

心がひらけている人って誰に対してもこういうようなことが起こるんだろうけど、ある程度心を許している人だとこういうことが起こりやすくなる。

そう考えると、とりあえず笑ってみることで心がすっとすることが多いんじゃあないかなあ。

精神科医の春日武彦先生は『不幸になりたがる人たち』のなかで次のようにおっしゃっているんですね。

>>
わたしが精神科医として沢山の人たちと接しているうちに気づいたことがあって、それは人間にとっての精神のアキレス腱は所詮「こだわり・プライド・被害者意識」の三つに過ぎないというまことにシンプルな事実である(それは犯罪の動機の大部分が「色・金・怨恨」の三つに収斂してしまうことに通じているのかもしれない)。

『不幸になりたがる人たち』春日武彦
<<


精神のアキレス腱。

すごい喩えですねえ。

こだわり、プライド、被害者意識

これって誰にでもあるもんだと思うんですよ。誰にでも。

でもね、その強度が高まりすぎると、心もかちこちになって衝撃にはもろくなってしまうのかもしれません。

コミュニケーション感度を高めるためにも、とりあえずケラケラ笑ってみる。

河合隼雄先生は、たえずニコニコされていてよく駄洒落を言っていたそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/07/19

睡眠の質を高めるために

http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080629/p1

睡眠の質を最高にする、ちょっと変わった夕食のとり方 - 分裂勘違い君劇場

睡眠の質が悪いと、脳の状態が悪くなり、

いやーな気分で目覚め、

その日一日、理解力が低下し、肝心なことに気がつかず、手違いが多く、

仕事が捗らず、それらがトラブルを起こして人間関係が悪化したり、ストレスがたまったりします。

そうすると、布団に入ってもなかなか寝付けず、

またまた睡眠の質が悪くなるという悪循環に陥ったりします。


このところ、寝苦しさから睡眠の質が悪くなっているというお話をよく耳にします。

ならばクーラーで部屋を涼しくしておいてから寝てはどうかというと、「クーラーは冷房病になるから」と敬遠される方も少なくありません。

たしかにクーラーの当たりすぎは、頭痛や手足の冷えとして症状化されます。

これも慢性化すると、自律神経の失調がおこるようになります。

皆さんそれをたいへん警戒されている。

とはいえ、心地よい風のはいるお部屋ならまだしも、暑くて寝つけないのにそれを我慢するというのはいかがなものでしょう。

精神科医の春日武彦先生がおっしゃるように、とりあえず早寝早起きしてみることが健康を取り戻す近道だったりします。

睡眠の質がわるいようでは、早寝早起きもできません。

半径3メートルにすべてがある、でしたっけ?

宮崎駿先生の言葉です。

簡単なことのようで、とってもむずかしい。

コンディショニングというのはそういうものなのでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/07/18

腰痛/背部痛における整体法

1.運動が繊細であること

人間は、節目ゝでその生き方を変えていかなければならない。

そのことを気づかぬままに、ただ一生懸命にやっているだけでは上手くいかない。

今までは上手くいっていたはずなのにと苛立ってくるからである。

そこで年齢のせいにしたりする。

悪いところを探すばかりになり、ふさぎこんでしまうきっかけになることもある。

現代のように社会の流れが速くなると、流行り廃りが速くなる。

そのため、今までやってきたことが上手くいかないときに、パッとそちらに飛び乗ってしまうことがある。

たとえば、腰が痛くなったので治療院に行ってみるとする。

身体が硬くなっていることを指摘される。

普段から気にはなっていたものの、まさかここまで進んでいるとは・・・そこで突然、昔やっていたストレッチを一生懸命にやってみる。

ところが上手くいかない。

伸ばせば伸ばすほどに腰が痛くなる。

そこで病院に行ってみる。

すると筋力が足りないといわれる。

ああやっぱり・・・そこで突然、筋力トレーニングにいそしむことになる。

トレーニングと名のつくものなら加圧式でも何でもやってしまい、筋肉を傷めてしまう。

慣れないことを急激に始めたからである。

皆さんが「衰え」を感じるのはどのようなときだろうか。

おそらく、思うように身体が動かせないときだという方が大半ではなかろうか。

普通の人はそれを「筋力の衰え」として解釈してしまう。

普通のセラピストにしても同様である。

ところが、思うように身体を動かせないのは筋力が足りないせいではない。

無数にある筋肉と筋肉とのつながりが弱まっていることが大きな理由である。

ひとつの筋肉をひと家族としてたとえると、ご近所とのお付き合いが少なくなっているようなものである。

そのため、筋肉と骨(関節)とのつながりも弱まる。

ストレッチや筋力トレーニングをどれだけ一生懸命やっても効果がないのは、筋肉どおしの連帯感を無視しているからである。

私たちは今、コンディショニングの節目に立っている。

2.脳と身体(背中―腰)

知れば知るほど分かりにくくなるということがある。

中途半端に知っていれば分かった気になれるが、あまりにも知りすぎるとその断片をかいつまんで話した方がわかりやすい。

そのひとつが脳科学ではなかろうか。

私は徒手療法家という仕事をしているのでその関連をあげてみるが、たとえば脳(大脳皮質)のなかで体幹(胴体)がどのように表現されているのかというのはたいへん気になる。

「指先を使えばボケない」

これは広く知られている迷信だが、いまだその信奉者はいっぱいおられるようである。

大きな口と指をもつホムンクルスをご存知の方もおられるだろう。

ところがこれは、脳にある「手」の領域がかなり広いと考えられていたがために、そこだけクローズアップされたことによる誤解である。

今では、第一次運動野のレベルには手―脳のなかの手の領域、腰―脳のなかの腰の領域というように、身体のすべての部位が1回だけ再現されるというような単純構造ではないことが分かってきた。

ところが、そんなことはほとんど知らされない。

科学を商売にいかすにはその断片をかいつまんだ方がわかりやすいからである。

徒手療法の現場で多い症状といえば背中―腰である。

そのため伝統的に、背中―腰のなかに何らかの原因を見つけ出すという手順がふまれる。

ところが考えてみれば、背中―腰は関節の数がべらぼうに多い。

「腰椎○番目がずれているので腰椎○番目を矯正しよう」というのはナンセンスである。

ついでに言えば、背中―腰の筋肉の数もべらぼうに多いので、「○○筋が弱っているから筋力増強しよう」というのもいただけない。

いずれにしても、一枚の葉にとらわれれいては木は見えず、1本の樹にとらわれていては森は見えん、である。

原因にとらわれていては本質が見えなくなる。

因果関係で物事を片付ける人が多いのと、ドクターショッピングとのあいだに関係があるのではないか。

おそらくは既存の方法を一度捨ててみなければならないのである。

3.身体運用的語彙の活用

もう一つ忘れてはならない点がある。

背中―腰の身体運用を「言語化」することの難しさである。

初回のセッションでは、お母さんがお子さんに向けて「背中を伸ばして良い姿勢に!」とお叱りになることがある。

ところが、良い姿勢とはどんな姿勢のことを指すのかと私も一緒になって考えを深めていくと、みんなで困ってしまうことになる。

なぜかというと、自分自身の身体について、とくに身体の動かし方については十分な「語彙」を持ち合わせていないからである。

子供はもちろん、大人にしても同様である。

そのため、見た目どう映るか?だけが基準になる。

お母さんは、お子さんの背中が十分に伸びていないことを「悪い姿勢」の基準にされるわけだが、叱られる側のお子さんにしてみれば「はて?腰を伸ばすって何?それおいしいの?」と困っちゃうわけである。

お子さんに身体運用における語彙を身につけてもらおうと願っていらっしゃるのであれば、子供というのはいったい自分の身体をどのように感じているかを想像(イメージ)する必要がある。

幼児が少しずつ言葉を覚えていくように、家庭での身体運用的語彙の活用が必要であろう。

もちろん小児、思春期のセッションでは身体運用的語彙の修得は必須科目のひとつである。

たとえば「腰」ひとつとってみても、「腰を据える」「腰を砕く」「腰が浮く」「腰を落とす」など、日本語の表現は実にすばらしい。

微妙な動きを見事にあらわしている。

とはいえ、日常のなかでこのような言葉遣いをされることは難しいだろう。

本来的な日本語と生活様式との差がそれに拍車をかけているからかもしれない。

4.骨盤底筋と女性の身体知

生活様式がちがうといえば、はっきりいってすべてが違っている。

特に「しゃがむ」のが少なくなっているのではなかろうか。

しゃがむというのは簡単そうでいて実にバランスがむずかしい。

試しにやってみましょう。

しっかりとお腹に力が入らなければよろけてしまう。

お腹に力をいれるというのが特に、現代の人は不得手という。

「腹圧性尿失禁」というのがあるが、昔は産後の方や高齢の方に限られていた症状が今では若いうちから悩みを抱えていることが少なくない。

これは、骨盤の底をサポートしている「骨盤底筋」という筋肉のはたらきが弱まることが一つの原因として考えられている。

私は徒手療法家であるので、このような相談を受けることがあるが、骨盤底筋だけを悪者にするのもよろしくないのではないかと提案している。

筋肉というのは、機会さえ与えられれば仕事をするようにできている。

なのに骨盤底筋の機能が低下しているのは、生活様式の急激な変化によって、機会が失われているのが大きいのではなかろうか。

とはいえ、なかには生活様式が変わってしまった現代においても骨盤底筋を上手く使っている方がおられるそうである。

三砂ちづるさんの『オニババ化する女たち』のなかでは次のような記述がある。

   

>>
現在月経血をコントロール「できる」女性たちが、いつからこのようなことができるようになったか、というきっかけについて注目してみると、親から伝えられた知恵の伝承というよりは、何か個人的なきっかけがあってということが多いようです。

    「高校生のころ、とにかく月経過多でつらくてしょうがなかったのです。授業の一時間ももたなかったりしました。婦人科にも行きましたが、とても嫌な思いをしましたし、薬を飲むのも嫌でした。ですから、自分で何とかとめようと思ったのです。スポーツが好きでヨガもやりました。ヨガでは呼吸法や骨盤底筋の調節をやりますから、十七、八歳でほぼ月経血を調節できるようになりました」(五十代女性)

    「私は看護婦をしていたので、ずっと立ちっぱなしで、行きたいときにトイレに行けるという状況ではありませんでした。ですから行けるときに出しておいたほうがいい、と思うようになって出すようにしていたら、自然とできるようになりました。中学生、高校生のころは、もっと量が多かったように思いますし、今思うとあまりできていませんでした。二十五、六くらいのときから、ほぼできるようになったと思います。でも、みんなこのようなものだと思っていました。こういことって、意外と友達にも話しませんよね」(三十代女性)

    おそらく九十代の女性も同様だったのでしょう。自分にとってはあまりにも当たり前のことで、それほど言語化する必要のない身体所作だったのだろうと思います。上の世代からの「気をつけなさい」「しくじらないようにしなさい」というひと言で、からだが自然に対処していたというふうにしか思えません。

    『オニババ化する女たち』三砂ちづる
<<


いずれにしても、自分の身体所作を「気をつける」ことをしてきたか否かで身体機能はすっかり変わる。

たとえば普段から正座でもして下腹部に力をいれるのが習慣になっていれば、骨盤底筋を自由自在にコントロールすることは簡単であろう。

ところが日常における骨盤底筋は、意識から「抜けて」いる。

私たちはほとんど無意識のうちに「生きて」いる。

ただ、そこで立ち止まってみると、いかに抜けて生きているかと愕然とすることがある。

私たちの身体にはまだまだ素材が気づかれることなく眠っている。

私たち徒手療法家は「抜けて」いる素材を見つけだし、ぜひ日常でも使っていただけるように手入れをさせていただいている。

このことが、女性の身体知を取り戻すきっかけになってくれたなら、これほど素晴らしいことはない。

5.一見猫背で姿勢が悪く見える人は

三砂ちづるさんのお話からわかるように、昔の人にはできていたことが今の人はできなくなっている。

もちろん、必要に迫られたり、整体などを通して、忘れられている女性の身体に在る力に気づいた人は例外である。

そもそも私たちの身体は、使わなければ忘れちゃうという習性をもっているのだ。

これは人間の五感などをみても明らかであろう。

皆さんの身体が外部から情報を受け取るためには、視覚、嗅覚、聴覚、触覚などが必要になるが、見たり、嗅いだり、聴いたり、触ったりする経験が乏しいほど脳―身体―情報の連絡は上手くいかないようになる。

ほとんどの人は脊柱(背骨)を「身体の大黒柱」と思っているらしいが、背骨は身体の支柱としてだけではなく、外部からの情報を受け取るためにあのような細かい構造になっていると考えてみてはいかがだろうか。

すると、一見良さそうな姿勢に見える人の身体が、いかに外部の情報をシャットアウトしているかがよくわかる。

本来はそれぞれの空間に向いているはずの関節を、ある一定の形にしばりつけるわけである。

とても健康的とはいえない。

つまり、私たちの背骨は一個ゝの脊椎に細分化することによって、情報を受容できる表面を格段にひろげ、細やかな情報をタイムリーに脳へと送ることができる。

姿勢(見映え)にばかり気をつかっていると、細かい情報はすべて「うるさい」情報と化す。

それならばひとまとめにしてしまえ!となるのである。

一見猫背で姿勢が悪く見える人は、外部からの情報に敏感に反応するという能力をもっていることが多い。

ほとんどの方は、おうおうにして「良い人」「優しい人」「心遣いが細やかな人」である。

ただ、そこからくる他者への配慮がときに自分自身を疲弊させてしまうことも否定できない。

6.背中と腰の言い分を聴いてみよう

私は徒手療法家という仕事をしているので、慢性痛の「原因」を訊ねられることが多い。

慢性痛というのはこんがらがった糸のようなもので、一度、こんがり始めまで遡って、ひとつひとつ結び目をほどいていく必要がある。

それを初っ端から「原因は○○です!」というのは些か焦りすぎではなかろうか。

なにしろクライエントさんの身体に失礼である。

身体には人それぞれの歴史があり、痛みだけではなく、喜びや哀しみや驚きや嘆きがぎっしりつまっている。

原因についてはセラピスト側ももう少し慎重な姿勢が必要ではなかろうか。

原因についてお知りになりたい方は、もうすでに多くの治療院や病院をまわっておられる。

ところが、どこでも腑の落ちるような「解答」を得られなかったから悩んでしまわれる。

「原因探し」には終わりがない。いやいやワイドショーを見ていてもお分かりのように、安易な原因探しは単純な物語に落とし込んでとりあえずの解決を得ることである。

だから身体を手入れされることよりも原因を知ることの方を目的とする人は一向に減らない。

「わからないことをわからないままに抱えておく」

というのは人間の優れた知的戦略であるが、現代人はおうおうにしてすべて数値化/画像化してそれをわかろうとする。

ところがそれは原因について「頭でわかっている」だけで、「身体が納得している」わけではない。

むしろ身体はすでに原因を知っているのだけど、頭のほうがそれに気づいていない(あるいは否認している)ということも考えられる。

数値/画像は、長きにわたって「呪い」をかけ続けるのだ。

身体は素晴らしいもので、そこでも色々な症状をだして頭に気づかせようとするのだが、トップ(中枢神経)は、身体感覚をシャットアウトしてでも数値/画像と慢性痛との整合性を高める。

困ったものである。

これでは身体に良い変化をもたらすことは期待できない。

慢性痛を抱えた身体にとって重要なことは、何よりも「身体の言い分」を聴いてみることである。

身体は外部環境との相互作用を正確に理解しようとするために、複数の感覚プロフェッショナル(触覚/固有受容器/前庭/視覚)を身体各部位に配置している。

感覚のプロフェッショナル集団がそれぞれの情報を持ち寄り、情報に一貫性をもたせトップ(中枢神経)へと報告する。

もし感覚プロフェッショナルのなかで意見の相違があれば、もっとも信頼できる情報をもっているものと判断した感覚の情報をトップ(中枢神経)の裁量で決定するシステムとなっている。

非常に効率的なシステムといえる。

ところが、たとえば「ぎっくり腰」を例にとってみると良いことばかりではないことがわかる。

腰を傷める方というのは共通して、ご自分の身体がどのようになっているかを知らない。

だから、見た感じ(視覚)だけで身体を動かしてしまうことが多々ある。

そうすると、身体をむりにねじったり、傾けたりするわけだから当然腰には負担がかかる。

脊椎にある体性感覚の情報を聴き取ることさえできればそんなことにはならない。

トップ(中枢神経)の判断だけが正しいとは限らない。

もちろん、それぞれの感覚に一貫性さえあればこんなことにはならない。

長きにわたって腰や背中に痛みを抱えている方というのは、統合されるはずの感覚に一貫性がなくなり、分裂している状態と考えられる。

徒手療法家にできることは、そうした統合されないままに使われなくなった感覚に光をあてることではないだろうか。

7.分裂した感覚に光をあてる

「分裂した感覚に光をあてる」

なんだかこ難しいようだが、簡単にいえば、人と環境、人とモノ、人と人とのつながりの中に「新たな意味」を構築していきましょうという話である。

自分流の身体の手入れをされている方もいらっしゃると思うが、なかなかひとりでは、自身の身体に新たな意味を見出すことはむずかしい。

人は未知のものと遭遇したときにはじめて、成長のための最大のチャンスが訪れるからである。

「それなら仕事を変えたら?」「新商品のコルセットがおすすめなのよ」「人と関われば良いんじゃないの?」

というように、人のことだと思って簡単にいう人がおられる。

もっともな話である。

しかし、とりあえず何かに関わってさえいれば身体が変わるというのであれば、病院に行ったり、治療院に行ったりするだけで、身体というのはずいぶん良くなるはずではないか。

ではちょっと見方を変えて、関わり方の方法がちがうのではないかと考えてみてはいかがだろう。

従来の徒手療法では、患者は「受ける側」、療法家は「施す側」という区切りのなかで機能してきた。

もちろんそのことを批判する気はまったくない。時代性もあるだろう。

ただ、患者側―療法家側と区切ることによって、患者さんの身体がもっている潜在的な可能性の芽を摘んでいるケースがあることを知っていただければと思う。

なかにはPNFなどの運動療法によって患者さんが能動的に運動を遂行する手法もないことはないが、それはあくまで「療法家が設定した課題」なので、患者が直面する課題とはちょっとちがう。

従来の手法は、いってみれば動物園のなかで管理人付き添いでライオンをみるようなものであり、意味をもたらす手法とは、野生のなかでレンジャー付き添いでライオンに向き合うようなものである。

ライオンとの遭遇という「問題」に直面し、闘うべきか逃げるべきか、あるいは他の方法がないかを一瞬で判断すること。

頭で考えても解答はない。

身体が課題のなかにどのような差異を見つけるか?

すべてはそれにかかっている。

たとえば、年来のひどい肩こりのクライエントさんがいらっしゃるとする。

今までマッサージやらクイック整体やらに通っておられた。

ところが最近、もんでもほぐしてもどうしようもないくらい酷くなってしまった。

ここまでくると、クライエントさんの肩は痛みを感じるためだけに存在し、外部環境との関係は閉じてしまっている。

自身の「正中線」を意識するはずもなく、ベッドに横たわっても痛みを抱えた側に頭部が回転している。

このときクライエントさんに必要なことは、肩のこりをほぐすことではない。

本来は首や肩の運動に密接にかかわっている肩甲骨周辺組織の感覚(触覚/圧覚/運動覚)に意識を向けていただくことである。

8.細分化された部位同士の対話

身体というのは素直なもので、ただ解(ほぐ)されているだけで「変わる」ことはない。

身体と外部環境とのあいだに新たな意味を見出すためには、単に解されるだけではなく、触れられ方のちがい、深さのちがい、場所のちがい、動かされ方のちがいなどを上下前後左右で比較し、差異を見出す必要がある。

つまり、ちょっとした「差」に気づいていただくわけだ。

そうすると、「オレは腰とはちがう」「オレだって尻とはちがうぞ」「オレは右とはちがう」「オレだって左とはちがうぞ」「オレの方が上がるぞ」「オマエが上がりすぎじゃないか」

というように細分化された部位同士の対話がはじまる。

分裂していた感覚通しの対話がでてくると、クライエントさんのイメージはよりいっそう鮮やかになっていく。

これが非常に興味深いところであるし、療法家が感動をいただくところではなかろうか。

感覚というのは部分的に運動イメージと重なっている。

そのため、今までは一言目には痛い!、二言目には痛い!としか言えなかったような人が突然、ご自身の身体についてじっくりと語り始めることがある。

ご自身の身体について「新たな意味」を獲得されたときにはじめて、心の底から込み上げてくる「言葉」がある。

私はそれを大切にしている。

人間の身体は、おおざっぱに扱えばいくらでもおおざっぱに形成される。

ただ、裏を返せば、細やかに扱えばいくらでも細分化できるともいえる。

細やかにというのは神経質に、ということではない。

身体を、動作を、限りなく細かく分割するということである。

たとえば緊張症の人は、まるで胴体をカメのように身を固め生活している。

しばらくセッションを重ねていくうちに、ずいぶんとリラックスを得られ、まるで甲羅を脱いで浜辺で日干しでもしているかのようになる。

しかし、今までしょってきた甲羅をいきなりはずしちゃうという完全な自由もまた、行過ぎれば足腰立たなくなり、日常の生活に支障がでるかもしれない。

「身体を細分化させリラックスを得ながらも秩序のなかにいる」

そういう一見相反する身体運用こそ、徒手療法の求めるものがあるのではなかろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/07/17

親からの意見に対応するカスタマーサポート業務

http://kousyoublog.jp/?eid=1766

Kousyoublog | 加速する親のモンスターペアレント化は教育のカフェテリア化を生むかも?

学校が教育の全権を握っていた時代(があったのかどうかはわかりませんが)から親の監督下で教育を委託される学校へと親の心理は変わっていくのかもしれませんね。

だとすると、学校は親との折衝窓口を整備する必要が強く出てくるのだと思います。親からの意見・苦情などを聞き対応するカスタマーサポート的業務を当然のコストとして捉えざるを得なくなるんじゃないかなぁ。どこまで行くかわからないけど、子どもに勉強を教える教師・マネジメントをする管理職とは別に、あらたにカスタマーサポートをする人員が当然のこととして採用・育成・配置されるようになっていくかもしれないですね。

で、ちょっとした思いつきなんですが、もし、親が教育のマネジメントをする、という風潮がこのまま強化されていくのであれば、教育のカフェテリア化という流れが生れるんじゃないかなー。今でも受験勉強対応のための学習塾がありますが、さらに、親が自分の子供に受けさせるカリキュラムを選択することが出来、様々な学校や先生を選び組み合わせて学校に通わせる、というような教育の形が生れないとも限らないですね。もし、そうなったときに教育のあり方がどう変わるのかは分かりませんが、今後、「子供の教育のマネージャー化する親」と対峙させられる学校という流れの中で学校教育は変わらざるを得なくなっていくのだろうと思います。


たしかに現状では、親からの意見に対応するカスタマーサポート業務ができてもおかしくない。

「プロ教師の会」代表の諏訪哲二先生は、『学校のモンスター』のなかで「「公」は万能ではない」とおっしゃっている。

ちょっと長いけど抜き出してみよう。


子ども(若者)たちが学校で「生徒」としてのありようからズレはじめた頃、「臨時教育審議会」が国家主導の国民形成型の古い教育を批判する。民間活力と市場(競争)の論理によって子どもたちの個性を尊重する教育をするという「教育の自由化」論は、強い影響力を持った。(中略)「子どもを教育して一人前の市民にする」より、「子どもに合わせてその学習を支援する」という子ども中心主義的な考え方が優勢になっていく。学校や教育の「公」性が消えていく。これが「ゆとり・生きる力」教育につながっていった。(中略)「上」からの国民形成重視型の教育が否定される、ということは、子どもの個々の興味や関心や個性に従う、ということである。学校は住民(親、生徒)にサービスをおこなう奉仕機関と位置づけられる。生徒や保護者の要求は文科省や教育委員会からの指示と同じくらい大事にされなければならない、ということになった。

『学校のモンスター』諏訪哲二


つまり、「私」的利害を中心にものを考える民間企業の論理と同じになってしまったわけである。

そうすると、学校は企業で、親御さんはお客様で、生徒は商品ということになる。

企業論理の教育で考えてみると、生徒(商品)の素行不良・学力低下は「不良品」として取り扱われることになるわけである。

そこで、お客様(親御さん)が企業(学校)に対して苦情を言うことになる。

「お宅の商品には欠陥がありますよ!」という風に。

でも、お子さんは商品じゃあない。

その人というのは世界でひとりしかいないからね。

それを忘れて、「不良」がないように上手くやることができたとしても、それは自分の人生を生きているのとはちょっと違う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/07/16

「遊び」から身体が抜けている

http://b.hatena.ne.jp/entry/9276373

はてなブックマーク - 東京新聞:DS鬼ごっこで遊ぼ 無線通信で“情報戦”:社会(TOKYO Web)
東京都内の狭い遊び場で、ただ追いかけっこをするだけではつまらない-。そんな子どもたちが、任天堂の携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」を使った独自の鬼ごっこを考え出した。子どもたちは「DS鬼ごっこ」と呼び、放課後になるとDSを手に地元の児童館に集まる。DS鬼ごっこは、画面に書き込んだ文字や絵を無線で通信し合う「ピクトチャット」という機能を活用。「鬼が来た」「○○君が鬼になった」などと情報を交換しながら鬼から逃げる。鬼が仲間のふりして偽情報を流したり、ちょっとした駆け引きもある。約三十メートルの範囲でしか通じない機能だけに、建物の中や隠れる場所の多い路地裏などが格好の遊び場となっている。都会の狭い遊び場を逆手に取った遊び方。子どもたちに聞くと、「みんなで協力し合って逃げるのが楽しい」という。離れ離れになりながら、つながっている連帯感が人気の秘密だ。


子供は面白い。

放っておけば次々に遊びを考える。

小学生も高学年になると子供の発明力はますます増してくる。

それが「DS鬼ごっこ」に結びついたのかもしれない。

とかく「教える」ことが強調されている昨今、何だか嬉しいニュースである。

もし遊びが、教えられたり、与えられるものであったらどうだろう。

当然、そこから自主性は生まれないだろう。

教えを「待つ」身になるからである。

私は徒手療法家なので、小学生くらいのお子さんから身体が痛いという相談を受ける機会が多い。

ところが、痛いところに問題があるケースは少ない。

それは大人も同様である。

身体は痛みというサインによって色んなことを教えてくれるのだ。

子供のセッションでは、「遊び」が話題にのぼることが多い。

ところが、いかにもエネルギーがこもって、そこからは前に進めないというようなことがある。

だから、「遊び」について話をしていても、そこには「熱」がない。

まるで体験をしているようには感じられないのだ。

そのような子はあるとき急に「本当はやってみたい遊び」について話し出す。

それは大人からすると「危ない」とか、「迷惑だ」という遊びであることが多い。

だからきっと話すのをセーブしていたんだろうね。

でも本当は、心の発達にともなって遊びも変わっていくのである。

ときに「危ない」とか、「迷惑」だってこともある。

だからって、周囲の意見で子供の発達を抑制されてしまうのはまこと残念だ。

こういう子は本来発散されるはずのエネルギーが上手くつかえずに身体の不調や問題行動となってあらわれる。

くすぶっているエネルギーを使えるようになってきたときに、本来の力を発揮するようになる。

「遊び」から身体が抜けている。

これは近年の子供たちに共通した特徴であると私は感じている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/07/15

残業ゼロの吟味力

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51081137.html
404 Blog Not Found:この夏の日本に最も必要な一冊 - 書評 - 「残業ゼロ」の人生力

そう。実は余暇がないというのは物事を吟味して購入する時間もないということを意味する。


洞爺湖サミットは環境サミットという位置づけにあった。

これは世界における環境問題がいかに深刻であるかを示していたようであったが、環境問題にお詳しい養老孟司先生や池田清彦先生のご著書などを拝見すると、環境問題を国家的な関心ごととすることには疑問を抱かざるを得ない。

日本人というのは、実に変わり身が早い。

「金」がもてはやされると「拝金原理主義者」となり、「エコ」が重要だということになると「エコ原理主義者」となる。

本心ではどう思っているかは知らない。

ただ、流れにのりつつも色々と辛抱するのがわりと好きなのではないか。

八百屋さんや農家の人に聞くと、最近のお客さんは見映えが悪けりゃ手をつけないという。

この点ではもの凄くはっきりしている。

日本はかねてからずっと辺境にあって、「大国」からいただいたありがたいものを「改良」することで、さらに新たな意味を見出すという国民的特性がある。

そのため、現代における野菜や果物は見映えを美しく、味も洗練されて、いつでも欲しいときに手に入るというようにアクセサリー化されている。

もちろんそのことで、余分なエネルギーが使われているのではあるが、「エコ原理主義者」はたいして気にされないようである。

自然なままに食べる野菜なり果物はやはりどこか泥臭さとか、田舎くささがあってしかりだと思うのだが、人工的な食物に慣れ親しんでしまうと身体が受け付けなくなる。

このような考えで、私たちの生活を再検討してみると、無駄にエネルギーを消費して本来的な「豊かさ」を低下させていることがあるのではないかと疑いたくなる。

原油高による休漁問題にも結びつくと思われるが、現在行われているオリンピック方式による漁は、早い者勝ちであるから、どうやっても無駄なエネルギーを消費してしまう。

おそらく私たちの日常にもこうした光景が当たり前のようにあるのではなかろうか。

私は徒手療法を専門にしているので、残業を続けて心身を壊された方とお会いすることがある。

今まではとにかく会社のために、家族のためにと思って仕事を続けてきたのだが、身体を壊してあらためて考えてみると、自分のことをじっくり考える機会など今までに一切なかったことに気づかれる。

そうすると、会社のために、家族のためにと思ってきたのはいったい何だったかと考えを深めていくことになる。

物質的な豊かさを享受できる時代であるから、本来あるべき心の「豊かさ」でさえ物質によって満たそうとする。

そのため、子供が引け目を感じないようにと、週末に遊びに行かないと気がすまなかったり、友達と同じようにと高価なおもちゃを買い与えたりする。

「そのためにも稼がなくちゃ」

平日の残業はそのあらわれではないかと思う。

親と子供とのあいだに「自然」に存在していたはずの感情が物質によってさえぎられてしまう。

このことからわかるように、親と子供とのあいだにある「葛藤」でさえも物質によって解決しようとする人がいても不思議ではない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/07/14

「馬鹿なクレーマーは他の客を不幸にする」を読んで

これほど「クレーマー」が問題になっているのも今までなかったのではないだろうか。

記事を読んで気になった点は次の箇所である。

http://d.hatena.ne.jp/inumash/20080714/p1

馬鹿なクレーマーは他の客を不幸にする。 - 想像力はベッドルームと路上から

しかも、僕が何よりも不快に思ったのが、おっさんが最後に『観客全員に払い戻ししろよ!』と他の客まで巻き込んだ要求をしたこと。まるで『自分は決して個人的な感情で怒鳴ったわけではない。他の観客も含めた“正当な要求”をしただけだ』とでも言うみたいに。


無理難題を正当化させること。

なぜこのおじさんはこのような発言をされたのであろうか。

プロ教師の会代表の諏訪哲二先生は、近代人は「等価交換」の発想をする。自分で考え、自分の利益で動くのは近代人の土台だとおっしゃっている。

利益で動く。

つまり、経済合理性だけを人間の考え方や行動の基準に採用しているわけだ。

これを学校でもやっているのが「モンスターペアレント」「モンスターペアレンツ」である。

学校はあくまでも「公」である。

そのため、こちらの思うことを伝えるにしても「大きい存在」であるからやはり考えを深める必要がある。

ところが、すべてを等価交換可能なものとして捉えている場合、「公」との衝突でさえも水平構造となる。

これでは学校への信頼とか尊敬とかがなくなるのも理解できるのではなかろうか。

大変なことである。

何しろ「経済合理性」で動いている以上、経済的主体として自立さえできていればとりあえず生きていけるだろうと考えるからである。

私たちは他者と関わるとき、「水平構造」だけでは上手くいかない。

先の映画館でスタッフに罵声を浴びせている客のように、本来であれば問題なく映画を観ることができたはずなのに、私はそれを享受できなかった。だからその被害に見合うように全額払い戻しせよというのは、まさに子供の言い分である。

被害者の立場を先取することが生存戦略上有利というのが血肉化されているのだろう。

大人は自分の心のなかにある「他者性」を内包しているからこそ、理解不能の隣人とでさえ共同体をつくることができる。

もしかすると、大人になりきれていない人がクレーマーになるのかもしれない。

とはいえ、「公」が行過ぎても、「私」が行過ぎても私たちの精神は足場をくずしてしまう。

おそらくはその両方を必要以上に一致させないようにバランスをとることが必要なのではなかろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/07/13

「未知」に踏み込む心と身体

3億円あっても楽しくなれない理由は、子供が知っている - 分裂勘違い君劇場
大人になっても、人生の楽しさの本質は、無心に遊ぶ子供となんら変わらない。http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060809/1155111327

大人も、楽しくなるためには、子供のように、砂場や積み木や遊び友達が必要なのだ。

しかし、3億円では、砂場も積み木も遊び友達も買えない。

子供用の砂場や積み木は買えるかも知れないが、大人用の砂場や積み木は3億円程度では、手に入れられないのである。

子供たちが、砂場の世界を心から楽しめるのは、それが、子供にとって世界の全てだからだ。

その「全世界」を思うさま駆け回り、気の向くまま、仲間たちと戯れながら、思いつくまま砂山やトンネルや川や池を創造し、心のおもねるまま、世界を創造し、破壊ししていく。それは、一点の曇りもなく、心の底から楽しいことだ。

面白い。

人間がいて、砂場があって、人間が砂場で遊んでいるようでいて、砂場のなかに人間がいるんだぞ、というように感じた。

子供だって、大人だって、生きるってことはもう砂場とセットになっている。

その感じを忘れてしまうとやはり、心のほうも、身体のほうもまいってしまうのではなかろうか。

私の実家は山奥にあって、それこそ砂場なんかなかった。

砂場というのは都会の人間のものだと思っていた。

学校から帰ってくると、すぐに山のなかに入って、遊んでいるうちに暗くなっているという毎日。

何をして遊ぶのかというとそれはもう思いつき。

木の上に基地をつくったり、虫を獲ったり、野うさぎの罠をつくったり、高いところから「川」をつくって人工的な町をつくったりしていた。

そういう経験があると、都会の子供はつまんないなあと思う。

もちろん、都会の子供にとっては今置かれている世界がすべてだから、そんなこと言われても困っちゃうと思うけど。

とにかく今は「教える」ことに力を注ぎすぎなのではないかと思う。

しかも、「正しい」知識を出力することばかり。

それじゃあ子供は入力ばかりに気がいって、まるで「受身」の子供を作り出してしまう。

「教えられる」ことを強調されて育っていった子供が大きくなってどういう人間になるかと、想像してみてほしい。

現代は「教えられる」ことを当たり前に思っている大人が増殖している。

では、ちょっと発想を変えてみて、大人も、自分の知らないことにチャレンジしてみてはいかがだろう。

知らない世界には必ず「発見」がある。

砂場を全世界だと感じている子供にしても、そこで行われている「遊び」には必ず発見があるはずである。

慢性痛を抱えている人にも同じことが言えるが、私たちの身体は3日もあればすべて入れ替わっている。

慢性痛を慢性痛として成り立たせているのは、「未知」に踏み込んでいないからである。つまり、未知を「既知」として処理してしまう癖にある。

知っていることはそこそこに、驚きのなかに、楽しさのなかに身をおいてみる。

そうすると、受身の姿勢なんてすっかりなくなり、前のめりのわくわくした心と身体の動きがでてくるはずだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/07/12

『人生のプライオリティーを決める』を読んで

『ハーバード大学医学部留学・独立日記』島岡要先生の「人生のプライオリティーを決める」
http://www.yodosha.co.jp/jikkenigaku/spirit_osm_vol6.html
という記事をたいへん興味深く読ませていただいた。

「目標を紙に書くという行為は,その目標の達成の可能性を上げる効果があるのではないだろうか」

とのことである。

「夢」を自閉的に抱えるのではなく、紙に書いて他者に知ってもらうこと。

そして、漠然とした目標よりも期限を定めた具体的な目標を立てることが大切とある。

なるほど。

これは「慢性痛」の領域でも非常に重要なテーマではなかろうか。

私は徒手療法家という仕事をしているために、長い期間にわたり身体に痛みを抱えてこられた方と毎日お会いしている。

はじめは難しい問題を抱えておられるのだが、セッションを重ねていくにつれ、今までに経験されてきたことやこれからしてみたいことなどをお話される。

そうしたお話の「感触」がリアルになってきたときに、クライエントさんの身体はすっかり変わっているのである。

こういうことを言うと批判される方があるかもしれない。

ご自身の身体を道具のように考えておられれば尚更である。

しかし、私たちの心に浮かんでくる情景がより鮮明であるほどに、身体がそれに呼応するのを経験された方は多いのではないかと思う。

ひどい腰痛に悩まされてきた方が、いろんなところで受けてきた「治療」にコリゴリされて、じゃあ「手入れでもすっかな」と私のところにメールをする。

やっているうちに昔やっていた「遊び」の話に花が咲き、腰の筋肉が生き生きしてくる。すると、長年抱き続けてきた腰のイメージがすっかり変わっている。

こういうことはよくあるのである。

こちらから仕向けるということはない。(人間は単純ではない)

自然とそうなるのである。

「治療」という概念がある限り、クライエントさんの可能性はなかなかその「枠」からはみ出せない。

セッションのなかでやることというのは、その「枠」から少しずつはみ出すというところにある。

身体を限りなく細かく整体したり、時間軸を変えながらお話をしたりという積み重ねによって、「あら!変わったわ!」と後になって気づくのである。

身体が良くなってきたからイメージが活性化したのか、精神状態が良くなってきたから身体感受性が高まってきたのか、それはわからない。

でも、結果として変わるわけなのだからそれで良い。

ところが、いつになっても痛み方が変わらないとおっしゃる方が中におられる。

もちろんそれぞれに多くの複雑な問題を抱えておられるわけだから、致し方ない面はある。

ただ、ここで問題なのは、クライエントさんの意識があまりにも痛みに一点集中していることである。

多くの方は痛みをベースにしてイメージをふくらませたり、身体感受性を高めたり、現実吟味をされる。

ところが痛みから目を逸らすことができない方は、「痛みがなくなること」だけを現実の目標にされている傾向が強い。

そう考えると「変わる人」というのは、痛みを抱えつつも潜在的に視野がひろい人ということになる。あるいは世界に対して開かれる可能性をもっている人ともいえるのではなかろうか。

だからその分、願望の数がたいへん多い人なのではないかと推察している。

ひとつの願望を抱いているよりも、10個の願望を抱いている方が願望を達成する確率が10倍高くなる。

痛み方が変わることの一点を目標にするよりも、そこから発想を拡げられる人、時間を自在に移動できる人、こういう人がおそらくはセッションを上手く利用してご自身のライフスタイルに反映されておられるのではなかろうか。

「夢」を紙に書くのならいっぱい書き出してみよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/07/11

細分化された部位通しの対話

身体というのは素直なもので、ただ解(ほぐ)されているだけで「変わる」ことはない。

身体と外部環境とのあいだに新たな意味を見出すためには、単に解されるだけではなく、触れられ方のちがい、深さのちがい、場所のちがい、動かされ方のちがいなどを左右上下前後で比較し差異を見出す必要があるのである。

つまり、ちょっとした「差」に気づいていただくわけである。

そうすると、「オレは腰とはちがう」「オレだって尻とはちがうぞ」「オレは右とはちがう」「オレだって左とはちがうぞ」「オレの方が上がるぞ」「オマエが上がりすぎじゃないか」

というように細分化された部位同士の対話がはじまるわけである。

分裂していた感覚通しの対話がでてくると、クライエントさんのイメージはよりいっそう鮮やかになっていく。

これが非常に興味深いところであるし、療法家が感動をいただくところではなかろうか。

感覚というのは部分的に運動イメージと重なっている。

そのため、今までは一言目には痛い!、二言目には痛い!としか言わなかったような人が突然、ご自身の身体についてじっくりと語り始めたりすることがある。

ご自身の身体について「新たな意味」を獲得されたときにはじめて、心の底から込み上げてくる「言葉」がある。

私はそれを大切にゝにしている。

人間の身体は、おおざっぱに扱えばいくらでもおおざっぱに形成されるものである。

逆を返せば、細やかに扱えばいくらでも細分化できるともいえる。

細やかにというのは神経質に、ということではない。

身体を、動作を、限りなく細かく分割するということである。

たとえば緊張症の人は、まるで胴体をカメのように身を固め生活している。

ところがしばらくセッションを重ねていくうちに、ずいぶんとリラックスを得られ、まるで甲羅を脱いで浜辺で日干しでもしているかのようになる。

自由な身体を得られたわけである。

とはいえ、今までしょってきた甲羅をいきなりはずしちゃうという完全な自由もまた、行過ぎれば足腰立たなくなり、日常の生活に支障がでるかもしれない。

「身体を細分化させリラックスを得ながらも秩序のなかにいる」

そういう一見相反する身体運用こそ、徒手療法の求めるものがあるように思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/07/10

分裂した感覚に光をあてる

「分裂した感覚に光をあてる」

なんだかこ難しいようだが簡単にいえば、人と環境、人とモノ、人と人とのつながりの中に「新たな意味」を構築していきましょうという話である。

自分流の身体の手入れをされている方もいらっしゃると思うが、なかなかひとりでは、自身の身体に新たな意味を見出すことはむずかしい。

人は未知のものと遭遇したときにはじめて、成長のための最大のチャンスが訪れるのである。

「それなら仕事を変えたら?」「新商品のコルセットがおすすめなのよ」「人と関われば良いんじゃないの?」

というように、人のことだと思って簡単にいう人がおられる。

もっともな話である。

しかし、とりあえず何かに関わってさえいれば身体が変わるというのであれば、病院に行ったり、治療院に行ったりするだけで、身体というのはずいぶん良くなるはずではないか。

実際は上手くいかないケースが多い。残念なことである。

ではちょっと見方を変えて、関わり方の方法がちがうのではないかと考えてみてはいかがだろう。

従来の徒手療法では、患者は「受ける側」、療法家は「施す側」という区切りのなかで機能してきた。

もちろんそのことを批判する気はまったくない。時代性もあるだろう。

ただ、患者側―療法家側と区切ることによって、患者さんの身体がもっている潜在的な可能性の芽を摘んでいるケースがあることを知っていただければと思う。

なかにはPNFなどの運動療法によって患者さんが能動的に運動を遂行する手法もないことはないが、それはあくまで「療法家が設定した課題」なので、患者が直面する課題とはちょっとちがう。

従来の手法は、いってみれば動物園のなかで管理人付き添いでライオンをみるようなものであり、意味をもたらす手法とは、野生のなかでレンジャー付き添いでライオンに向き合うようなものである。

もちろんこれは喩えである。

ライオンとの遭遇という「問題」に直面し、闘うべきか逃げるべきか、あるいは他の方法がないかを一瞬で判断する。

頭で考えても解答はない。

身体が課題のなかにどのような差異を見つけるか?

すべてそれにかかっている。

たとえば、年来のひどい肩こりのクライエントさんがいらっしゃるとする。

今までマッサージやらクイック整体やらに通っておられた。

ところが最近、もんでもほぐしてもどうしようもないくらい酷くなってしまった。

ここまでくると、クライエントさんの肩は痛みを感じるためだけに存在し、外部環境との関係は閉じてしまっている。

自身の「正中線」を意識するはずもなく、ベッドに横たわっても痛みを抱えた側に頭部が回転している。

このときクライエントさんに必要なことは、肩のこりをほぐすことではない。

本来は首や肩の運動に密接にかかわっている肩甲骨周辺組織の感覚(触覚/圧覚/運動覚)に光をあてることである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/07/09

背中と腰の言い分を聴いてみよう

私は徒手療法家という仕事をしているために、慢性痛の「原因」について訊ねられることが多い。

とはいえ慢性痛というのはこんがらがった糸のようなもので、一度こんがり始めまで遡って結び目をひとつひとつほどいていく必要がある。

それを初っ端から「原因は○○です!」というのは些か焦りすぎではなかろうか。

なにしろクライエントさんの身体に失礼である。

身体には人それぞれの歴史があり、痛みだけではなく、喜びや哀しみや驚きや嘆きがぎっしりつまっている。

原因についてはセラピスト側ももう少し慎重な姿勢が必要ではないだろうか。

原因についてお知りになりたい方は、もうすでに多くの治療院や病院をまわっておられる。

ところが、どこでも腑の落ちるような「解答」を得られなかったから悩んでしまわれる。

「原因探し」には終わりがない。いやいやワイドショーを見ていてもお分かりのように、安易な原因探しは単純な物語に落とし込んでとりあえずの解決を得ることである。

ところがそれで納得できるもんじゃない。

だから身体を手入れされることよりも原因を知ることの方を目的とする人は一向に減らない。

「わからないことをわからないままに抱えておく」

というのは人間の優れた知的戦略であるが、現代人はおうおうにしてすべて数値化/画像化してそれをわかろうとする。

ところがそれは原因について「頭でわかっている」だけで、「身体が納得している」わけではない。

むしろ身体はすでに原因を知っているのだけど、頭のほうがそれに気づいていない(あるいは否認している)ということも考えられる。

数値/画像は、長きにわたって「呪い」をかけ続ける。

身体は素晴らしいもので、そこでも色々な症状をだして頭に気づかせようとするのだが、トップ(中枢神経)は、身体感覚をシャットアウトしてでも数値/画像と慢性痛との整合性を高める。

困ったものである。

これでは身体に良い変化をもたらすことは期待できない。慢性痛を抱えた身体にとって重要なことは、何よりも「身体の言い分」を聴いてみることである。

身体は外部環境との相互作用を正確に理解しようとするために、複数の感覚プロフェッショナル(触覚/固有受容器/前庭/視覚)を身体各部意に配置している。

感覚のプロフェッショナル集団がそれぞれの情報を持ち寄り、情報に一貫性をもたせトップ(中枢神経)へと報告する。

もし感覚プロフェッショナルのなかで意見の相違があれば、もっとも信頼できる情報をもっているものと判断した感覚の情報をトップ(中枢神経)の裁量で決定するシステムとなっている。

非常に効率的なシステムである。

ところがこれを「ぎっくり腰」を例にとってみると良いことばかりではないことがわかる。

腰を傷める方というのは共通して、ご自分の身体がどのようになっているかを知らない。

だから、たとえば見た感じ(視覚)だけで身体を動かしてしまうことが多々ある。

そうすると、身体をむりにねじったり、傾けたりするわけだから当然腰には負担がかかる。

脊椎にある体性感覚の情報を聴き取ることさえできればそんなことにはならない。

トップ(中枢神経)の判断だけが正しいとは限らない。

もちろん、それぞれの感覚に一貫性さえあればこんなことにはならない。

長きにわたって腰や背中に痛みを抱えている方というのは、統合されるはずの感覚に一貫性がなくなり、分裂している状態と考えてよろしいと思う。

徒手療法家にできることは、そうした統合されないままに使われなくなった感覚に光をあてることではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/07/08

一見猫背で姿勢が悪く見える人は

三砂ちづるさんのお話からわかるように、昔の人にはできていたことが今の人はできなくなっている。

もちろん必要に迫られたり、整体などを通して、忘れられている女性の身体に在る力に気づいた人は例外である。

とにかく私たちの身体は、使わなければ忘れちゃうという習性をもっているのだ。

これは人間の五感などをみても明らかであろう。

皆さんの身体が外部から情報を受け取るためには、視覚、嗅覚、聴覚、触覚などが必要になるが、見たり、嗅いだり、聴いたり、触ったりする経験が乏しいほど脳―身体―情報の連絡は上手くいかない。

ほとんどの人は脊柱(背骨)を「身体の大黒柱」と思っているらしいが、背骨は身体の支柱としてだけではなく、外部からの情報を受け取るためにあのような細かい構造になっていると考えてみてはいかがだろうか。

すると、一見良さそうな姿勢に見える人の身体が、いかに外部の情報をシャットアウトしているかがよくわかる。

本来はそれぞれの空間に向いているはずの関節を、ある一定の姿勢にしばりつけるわけである。

とても健康的とはいえない。

つまり、私たちの背骨は一個ゝの脊椎に細分化することによって、情報を受容できる表面を格段にひろげ、細やかな情報をタイムリーに脳へと送ることができる。

姿勢(見映え)にばかり気をつかっていると、細かい情報はすべて「うるさい」情報と化してしまう。

それならばひとまとめにしてしまえ!となるのである。

一見猫背で姿勢が悪く見える人は外部からの情報に敏感に反応することができる。

それは、おうおうにして「良い人」「優しい人」「心遣いが細やかな人」なのである。

ただ、そこからくる他者への配慮がときに自身を疲弊させてしまうことも否定できない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«骨盤底筋と女性の身体知