1.運動が繊細であること
人間は、節目ゝでその生き方を変えていかなければならない。
そのことを気づかぬままに、ただ一生懸命にやっているだけでは上手くいかない。
今までは上手くいっていたはずなのにと苛立ってくるからである。
そこで年齢のせいにしたりする。
悪いところを探すばかりになり、ふさぎこんでしまうきっかけになることもある。
現代のように社会の流れが速くなると、流行り廃りが速くなる。
そのため、今までやってきたことが上手くいかないときに、パッとそちらに飛び乗ってしまうことがある。
たとえば、腰が痛くなったので治療院に行ってみるとする。
身体が硬くなっていることを指摘される。
普段から気にはなっていたものの、まさかここまで進んでいるとは・・・そこで突然、昔やっていたストレッチを一生懸命にやってみる。
ところが上手くいかない。
伸ばせば伸ばすほどに腰が痛くなる。
そこで病院に行ってみる。
すると筋力が足りないといわれる。
ああやっぱり・・・そこで突然、筋力トレーニングにいそしむことになる。
トレーニングと名のつくものなら加圧式でも何でもやってしまい、筋肉を傷めてしまう。
慣れないことを急激に始めたからである。
皆さんが「衰え」を感じるのはどのようなときだろうか。
おそらく、思うように身体が動かせないときだという方が大半ではなかろうか。
普通の人はそれを「筋力の衰え」として解釈してしまう。
普通のセラピストにしても同様である。
ところが、思うように身体を動かせないのは筋力が足りないせいではない。
無数にある筋肉と筋肉とのつながりが弱まっていることが大きな理由である。
ひとつの筋肉をひと家族としてたとえると、ご近所とのお付き合いが少なくなっているようなものである。
そのため、筋肉と骨(関節)とのつながりも弱まる。
ストレッチや筋力トレーニングをどれだけ一生懸命やっても効果がないのは、筋肉どおしの連帯感を無視しているからである。
私たちは今、コンディショニングの節目に立っている。
2.脳と身体(背中―腰)
知れば知るほど分かりにくくなるということがある。
中途半端に知っていれば分かった気になれるが、あまりにも知りすぎるとその断片をかいつまんで話した方がわかりやすい。
そのひとつが脳科学ではなかろうか。
私は徒手療法家という仕事をしているのでその関連をあげてみるが、たとえば脳(大脳皮質)のなかで体幹(胴体)がどのように表現されているのかというのはたいへん気になる。
「指先を使えばボケない」
これは広く知られている迷信だが、いまだその信奉者はいっぱいおられるようである。
大きな口と指をもつホムンクルスをご存知の方もおられるだろう。
ところがこれは、脳にある「手」の領域がかなり広いと考えられていたがために、そこだけクローズアップされたことによる誤解である。
今では、第一次運動野のレベルには手―脳のなかの手の領域、腰―脳のなかの腰の領域というように、身体のすべての部位が1回だけ再現されるというような単純構造ではないことが分かってきた。
ところが、そんなことはほとんど知らされない。
科学を商売にいかすにはその断片をかいつまんだ方がわかりやすいからである。
徒手療法の現場で多い症状といえば背中―腰である。
そのため伝統的に、背中―腰のなかに何らかの原因を見つけ出すという手順がふまれる。
ところが考えてみれば、背中―腰は関節の数がべらぼうに多い。
「腰椎○番目がずれているので腰椎○番目を矯正しよう」というのはナンセンスである。
ついでに言えば、背中―腰の筋肉の数もべらぼうに多いので、「○○筋が弱っているから筋力増強しよう」というのもいただけない。
いずれにしても、一枚の葉にとらわれれいては木は見えず、1本の樹にとらわれていては森は見えん、である。
原因にとらわれていては本質が見えなくなる。
因果関係で物事を片付ける人が多いのと、ドクターショッピングとのあいだに関係があるのではないか。
おそらくは既存の方法を一度捨ててみなければならないのである。
3.身体運用的語彙の活用
もう一つ忘れてはならない点がある。
背中―腰の身体運用を「言語化」することの難しさである。
初回のセッションでは、お母さんがお子さんに向けて「背中を伸ばして良い姿勢に!」とお叱りになることがある。
ところが、良い姿勢とはどんな姿勢のことを指すのかと私も一緒になって考えを深めていくと、みんなで困ってしまうことになる。
なぜかというと、自分自身の身体について、とくに身体の動かし方については十分な「語彙」を持ち合わせていないからである。
子供はもちろん、大人にしても同様である。
そのため、見た目どう映るか?だけが基準になる。
お母さんは、お子さんの背中が十分に伸びていないことを「悪い姿勢」の基準にされるわけだが、叱られる側のお子さんにしてみれば「はて?腰を伸ばすって何?それおいしいの?」と困っちゃうわけである。
お子さんに身体運用における語彙を身につけてもらおうと願っていらっしゃるのであれば、子供というのはいったい自分の身体をどのように感じているかを想像(イメージ)する必要がある。
幼児が少しずつ言葉を覚えていくように、家庭での身体運用的語彙の活用が必要であろう。
もちろん小児、思春期のセッションでは身体運用的語彙の修得は必須科目のひとつである。
たとえば「腰」ひとつとってみても、「腰を据える」「腰を砕く」「腰が浮く」「腰を落とす」など、日本語の表現は実にすばらしい。
微妙な動きを見事にあらわしている。
とはいえ、日常のなかでこのような言葉遣いをされることは難しいだろう。
本来的な日本語と生活様式との差がそれに拍車をかけているからかもしれない。
4.骨盤底筋と女性の身体知
生活様式がちがうといえば、はっきりいってすべてが違っている。
特に「しゃがむ」のが少なくなっているのではなかろうか。
しゃがむというのは簡単そうでいて実にバランスがむずかしい。
試しにやってみましょう。
しっかりとお腹に力が入らなければよろけてしまう。
お腹に力をいれるというのが特に、現代の人は不得手という。
「腹圧性尿失禁」というのがあるが、昔は産後の方や高齢の方に限られていた症状が今では若いうちから悩みを抱えていることが少なくない。
これは、骨盤の底をサポートしている「骨盤底筋」という筋肉のはたらきが弱まることが一つの原因として考えられている。
私は徒手療法家であるので、このような相談を受けることがあるが、骨盤底筋だけを悪者にするのもよろしくないのではないかと提案している。
筋肉というのは、機会さえ与えられれば仕事をするようにできている。
なのに骨盤底筋の機能が低下しているのは、生活様式の急激な変化によって、機会が失われているのが大きいのではなかろうか。
とはいえ、なかには生活様式が変わってしまった現代においても骨盤底筋を上手く使っている方がおられるそうである。
三砂ちづるさんの『オニババ化する女たち』のなかでは次のような記述がある。
>>
現在月経血をコントロール「できる」女性たちが、いつからこのようなことができるようになったか、というきっかけについて注目してみると、親から伝えられた知恵の伝承というよりは、何か個人的なきっかけがあってということが多いようです。
「高校生のころ、とにかく月経過多でつらくてしょうがなかったのです。授業の一時間ももたなかったりしました。婦人科にも行きましたが、とても嫌な思いをしましたし、薬を飲むのも嫌でした。ですから、自分で何とかとめようと思ったのです。スポーツが好きでヨガもやりました。ヨガでは呼吸法や骨盤底筋の調節をやりますから、十七、八歳でほぼ月経血を調節できるようになりました」(五十代女性)
「私は看護婦をしていたので、ずっと立ちっぱなしで、行きたいときにトイレに行けるという状況ではありませんでした。ですから行けるときに出しておいたほうがいい、と思うようになって出すようにしていたら、自然とできるようになりました。中学生、高校生のころは、もっと量が多かったように思いますし、今思うとあまりできていませんでした。二十五、六くらいのときから、ほぼできるようになったと思います。でも、みんなこのようなものだと思っていました。こういことって、意外と友達にも話しませんよね」(三十代女性)
おそらく九十代の女性も同様だったのでしょう。自分にとってはあまりにも当たり前のことで、それほど言語化する必要のない身体所作だったのだろうと思います。上の世代からの「気をつけなさい」「しくじらないようにしなさい」というひと言で、からだが自然に対処していたというふうにしか思えません。
『オニババ化する女たち』三砂ちづる
<<
いずれにしても、自分の身体所作を「気をつける」ことをしてきたか否かで身体機能はすっかり変わる。
たとえば普段から正座でもして下腹部に力をいれるのが習慣になっていれば、骨盤底筋を自由自在にコントロールすることは簡単であろう。
ところが日常における骨盤底筋は、意識から「抜けて」いる。
私たちはほとんど無意識のうちに「生きて」いる。
ただ、そこで立ち止まってみると、いかに抜けて生きているかと愕然とすることがある。
私たちの身体にはまだまだ素材が気づかれることなく眠っている。
私たち徒手療法家は「抜けて」いる素材を見つけだし、ぜひ日常でも使っていただけるように手入れをさせていただいている。
このことが、女性の身体知を取り戻すきっかけになってくれたなら、これほど素晴らしいことはない。
5.一見猫背で姿勢が悪く見える人は
三砂ちづるさんのお話からわかるように、昔の人にはできていたことが今の人はできなくなっている。
もちろん、必要に迫られたり、整体などを通して、忘れられている女性の身体に在る力に気づいた人は例外である。
そもそも私たちの身体は、使わなければ忘れちゃうという習性をもっているのだ。
これは人間の五感などをみても明らかであろう。
皆さんの身体が外部から情報を受け取るためには、視覚、嗅覚、聴覚、触覚などが必要になるが、見たり、嗅いだり、聴いたり、触ったりする経験が乏しいほど脳―身体―情報の連絡は上手くいかないようになる。
ほとんどの人は脊柱(背骨)を「身体の大黒柱」と思っているらしいが、背骨は身体の支柱としてだけではなく、外部からの情報を受け取るためにあのような細かい構造になっていると考えてみてはいかがだろうか。
すると、一見良さそうな姿勢に見える人の身体が、いかに外部の情報をシャットアウトしているかがよくわかる。
本来はそれぞれの空間に向いているはずの関節を、ある一定の形にしばりつけるわけである。
とても健康的とはいえない。
つまり、私たちの背骨は一個ゝの脊椎に細分化することによって、情報を受容できる表面を格段にひろげ、細やかな情報をタイムリーに脳へと送ることができる。
姿勢(見映え)にばかり気をつかっていると、細かい情報はすべて「うるさい」情報と化す。
それならばひとまとめにしてしまえ!となるのである。
一見猫背で姿勢が悪く見える人は、外部からの情報に敏感に反応するという能力をもっていることが多い。
ほとんどの方は、おうおうにして「良い人」「優しい人」「心遣いが細やかな人」である。
ただ、そこからくる他者への配慮がときに自分自身を疲弊させてしまうことも否定できない。
6.背中と腰の言い分を聴いてみよう
私は徒手療法家という仕事をしているので、慢性痛の「原因」を訊ねられることが多い。
慢性痛というのはこんがらがった糸のようなもので、一度、こんがり始めまで遡って、ひとつひとつ結び目をほどいていく必要がある。
それを初っ端から「原因は○○です!」というのは些か焦りすぎではなかろうか。
なにしろクライエントさんの身体に失礼である。
身体には人それぞれの歴史があり、痛みだけではなく、喜びや哀しみや驚きや嘆きがぎっしりつまっている。
原因についてはセラピスト側ももう少し慎重な姿勢が必要ではなかろうか。
原因についてお知りになりたい方は、もうすでに多くの治療院や病院をまわっておられる。
ところが、どこでも腑の落ちるような「解答」を得られなかったから悩んでしまわれる。
「原因探し」には終わりがない。いやいやワイドショーを見ていてもお分かりのように、安易な原因探しは単純な物語に落とし込んでとりあえずの解決を得ることである。
だから身体を手入れされることよりも原因を知ることの方を目的とする人は一向に減らない。
「わからないことをわからないままに抱えておく」
というのは人間の優れた知的戦略であるが、現代人はおうおうにしてすべて数値化/画像化してそれをわかろうとする。
ところがそれは原因について「頭でわかっている」だけで、「身体が納得している」わけではない。
むしろ身体はすでに原因を知っているのだけど、頭のほうがそれに気づいていない(あるいは否認している)ということも考えられる。
数値/画像は、長きにわたって「呪い」をかけ続けるのだ。
身体は素晴らしいもので、そこでも色々な症状をだして頭に気づかせようとするのだが、トップ(中枢神経)は、身体感覚をシャットアウトしてでも数値/画像と慢性痛との整合性を高める。
困ったものである。
これでは身体に良い変化をもたらすことは期待できない。
慢性痛を抱えた身体にとって重要なことは、何よりも「身体の言い分」を聴いてみることである。
身体は外部環境との相互作用を正確に理解しようとするために、複数の感覚プロフェッショナル(触覚/固有受容器/前庭/視覚)を身体各部位に配置している。
感覚のプロフェッショナル集団がそれぞれの情報を持ち寄り、情報に一貫性をもたせトップ(中枢神経)へと報告する。
もし感覚プロフェッショナルのなかで意見の相違があれば、もっとも信頼できる情報をもっているものと判断した感覚の情報をトップ(中枢神経)の裁量で決定するシステムとなっている。
非常に効率的なシステムといえる。
ところが、たとえば「ぎっくり腰」を例にとってみると良いことばかりではないことがわかる。
腰を傷める方というのは共通して、ご自分の身体がどのようになっているかを知らない。
だから、見た感じ(視覚)だけで身体を動かしてしまうことが多々ある。
そうすると、身体をむりにねじったり、傾けたりするわけだから当然腰には負担がかかる。
脊椎にある体性感覚の情報を聴き取ることさえできればそんなことにはならない。
トップ(中枢神経)の判断だけが正しいとは限らない。
もちろん、それぞれの感覚に一貫性さえあればこんなことにはならない。
長きにわたって腰や背中に痛みを抱えている方というのは、統合されるはずの感覚に一貫性がなくなり、分裂している状態と考えられる。
徒手療法家にできることは、そうした統合されないままに使われなくなった感覚に光をあてることではないだろうか。
7.分裂した感覚に光をあてる
「分裂した感覚に光をあてる」
なんだかこ難しいようだが、簡単にいえば、人と環境、人とモノ、人と人とのつながりの中に「新たな意味」を構築していきましょうという話である。
自分流の身体の手入れをされている方もいらっしゃると思うが、なかなかひとりでは、自身の身体に新たな意味を見出すことはむずかしい。
人は未知のものと遭遇したときにはじめて、成長のための最大のチャンスが訪れるからである。
「それなら仕事を変えたら?」「新商品のコルセットがおすすめなのよ」「人と関われば良いんじゃないの?」
というように、人のことだと思って簡単にいう人がおられる。
もっともな話である。
しかし、とりあえず何かに関わってさえいれば身体が変わるというのであれば、病院に行ったり、治療院に行ったりするだけで、身体というのはずいぶん良くなるはずではないか。
ではちょっと見方を変えて、関わり方の方法がちがうのではないかと考えてみてはいかがだろう。
従来の徒手療法では、患者は「受ける側」、療法家は「施す側」という区切りのなかで機能してきた。
もちろんそのことを批判する気はまったくない。時代性もあるだろう。
ただ、患者側―療法家側と区切ることによって、患者さんの身体がもっている潜在的な可能性の芽を摘んでいるケースがあることを知っていただければと思う。
なかにはPNFなどの運動療法によって患者さんが能動的に運動を遂行する手法もないことはないが、それはあくまで「療法家が設定した課題」なので、患者が直面する課題とはちょっとちがう。
従来の手法は、いってみれば動物園のなかで管理人付き添いでライオンをみるようなものであり、意味をもたらす手法とは、野生のなかでレンジャー付き添いでライオンに向き合うようなものである。
ライオンとの遭遇という「問題」に直面し、闘うべきか逃げるべきか、あるいは他の方法がないかを一瞬で判断すること。
頭で考えても解答はない。
身体が課題のなかにどのような差異を見つけるか?
すべてはそれにかかっている。
たとえば、年来のひどい肩こりのクライエントさんがいらっしゃるとする。
今までマッサージやらクイック整体やらに通っておられた。
ところが最近、もんでもほぐしてもどうしようもないくらい酷くなってしまった。
ここまでくると、クライエントさんの肩は痛みを感じるためだけに存在し、外部環境との関係は閉じてしまっている。
自身の「正中線」を意識するはずもなく、ベッドに横たわっても痛みを抱えた側に頭部が回転している。
このときクライエントさんに必要なことは、肩のこりをほぐすことではない。
本来は首や肩の運動に密接にかかわっている肩甲骨周辺組織の感覚(触覚/圧覚/運動覚)に意識を向けていただくことである。
8.細分化された部位同士の対話
身体というのは素直なもので、ただ解(ほぐ)されているだけで「変わる」ことはない。
身体と外部環境とのあいだに新たな意味を見出すためには、単に解されるだけではなく、触れられ方のちがい、深さのちがい、場所のちがい、動かされ方のちがいなどを上下前後左右で比較し、差異を見出す必要がある。
つまり、ちょっとした「差」に気づいていただくわけだ。
そうすると、「オレは腰とはちがう」「オレだって尻とはちがうぞ」「オレは右とはちがう」「オレだって左とはちがうぞ」「オレの方が上がるぞ」「オマエが上がりすぎじゃないか」
というように細分化された部位同士の対話がはじまる。
分裂していた感覚通しの対話がでてくると、クライエントさんのイメージはよりいっそう鮮やかになっていく。
これが非常に興味深いところであるし、療法家が感動をいただくところではなかろうか。
感覚というのは部分的に運動イメージと重なっている。
そのため、今までは一言目には痛い!、二言目には痛い!としか言えなかったような人が突然、ご自身の身体についてじっくりと語り始めることがある。
ご自身の身体について「新たな意味」を獲得されたときにはじめて、心の底から込み上げてくる「言葉」がある。
私はそれを大切にしている。
人間の身体は、おおざっぱに扱えばいくらでもおおざっぱに形成される。
ただ、裏を返せば、細やかに扱えばいくらでも細分化できるともいえる。
細やかにというのは神経質に、ということではない。
身体を、動作を、限りなく細かく分割するということである。
たとえば緊張症の人は、まるで胴体をカメのように身を固め生活している。
しばらくセッションを重ねていくうちに、ずいぶんとリラックスを得られ、まるで甲羅を脱いで浜辺で日干しでもしているかのようになる。
しかし、今までしょってきた甲羅をいきなりはずしちゃうという完全な自由もまた、行過ぎれば足腰立たなくなり、日常の生活に支障がでるかもしれない。
「身体を細分化させリラックスを得ながらも秩序のなかにいる」
そういう一見相反する身体運用こそ、徒手療法の求めるものがあるのではなかろうか。